写真手帖

写真作家の2人が写真を撮りながら考えたこと。

いつか人の一生を全部映像に残せる時代が来るんだろうなぁとか考えてしまった話

KikutaBayashiです。

 

 

なんだかとんでもなさそうなα7SIIIの発売や、コロナウィルス、著名人の死去などで、写真の未来や死について考えてました。

 

技術の進歩はすごくて、毎年毎年カメラの性能はアップしています。

でも結局、どんなに技術が進歩したって、やっぱり人は死には抗えないし死にゆく姿をとんでもない高画質記録することはできたとしても、

‘’死そのもの’‘だけは写すことができないんだろうなぁと思ってます。

 

 

 

 

 

このまま全部暴いていってしまったら僕らはどうなっちゃうんだろう? 

 

以前僕の持つ恐怖症"タナトフォビア=死恐怖症"について記事を書きましたが、

癖であらゆるものを死と関連づけて考えてしまうんですね🐯

 

 

近年はみんながスマートフォンというカメラを持ち、誰もが記録→発信をする時代です。

もはやSNSでお願いすれば、1時間後のどこかの国のどこかのスーパーマーケットの中の様子だって見れてしまうわけです。

どんどん"見れないもの"が減ってきてます。

そうなってくると未来に期待を感じる反面、

このまま全部暴かれていってしまったら僕らはどうなっちゃうんだろう?と怖くなったりもしています。

 

 

人は鏡の誕生、絵画の誕生、カメラの誕生により自己認識が変化してきたそうです。

 

 

 

人の一生の全てをカメラで撮影する思考実験

 

1つの思考実験を書いてみます🐯💭

それは1人の人間A君が受精卵から人間へと成長し、最後は死去して灰となり自然に還るまでを全てカメラに捉えてみる実験です。

(例えるなら、スーパーマリオ64のジュゲムみたいな感じで一生のずーっとくっついて写していきます。)

 

まず設定として、容量無限、バッテリー無限、ズーム倍率無限、感度無限、のカメラが存在すると仮定します。

 

①A君の始まりは受精卵。早くも最大ズーム(顕微鏡レベル)で撮影を開始です。

A君はどんどん細胞分裂を繰り返し赤ん坊になります。母親の中のお腹の中の様子も、未来の謎透視技術で記録します。

 

②A君は無事に産まれてきてオギャアと声をあげます。

この時点でA君にはA君という名前がつきました。

そして美味しいご飯を食べてスクスクと成長をしていきます。

 

幼稚園→小学校→中学→高校(→各進路)

 

甘酸っぱい青春も苦い思い出も全部記録です。

好きなあの子をチラ見している姿も、トイレ中すら問答無用にしっかり捉えます。

 

そして

→社会人→結婚→出産→子育て→→退職→老後

こんなところでしょうか。

各段階に様々なドラマがあるでしょうが、そこは実験には関係ないので淡々と撮影は続いていきます。

 

ここで儚くもA君の人生は終わりを迎えます。

数々の幸福と苦難を味わい、ここまで懸命に生きてきたA君。

享年85歳、A君はこの世界から旅立ちました。

 

→→死去

 

まぁせっかくなので火葬と埋葬まで撮影を続けてみましょう。

火葬により燃え上がり灰となるA君を撮影をしてみます。

 

死去→火葬→埋葬

 

ここで撮影は終わりです。

さよなら、A君。

こんな実験に付き合ってくれてありがとう。

 

では残された映像はどんなものか?

撮影されたデータはとんでもないデータ量でしょうが2100年くらいには無限に近いデータ量も処理できちゃうとして、

とりあえず鑑賞者はA君の人生を1000倍速で見てみたり、リアルタイムで見てみたり、自由に鑑賞することができます。

 

なんなら息子がそのデータを引き継いで、

「父さんって2042年の10月15日の21時32分52秒に何してたんだろ・・」

なんて言って見れちゃったりするかもしれません。

 

「うわー2041年7月の母ちゃんとの出会いってこんな感じだったんだー・・」

とか

「うっわ若い母ちゃんといちゃついてるよ、複雑・・」

なーんて🐯💭

 

 

 

こんな未来嫌!でもいつか実現できそう。なんなら本気出せばもうできそう。

 

さっきのA君の人生の撮影って不完全ですがやろうと思えばある程度今の時点でもできちゃう気はするんですよね。

だからいつか本当に行われる日がくるかも。こわっ。

 

 

 

 

A君の一生を撮影しても映らないA君という存在

 

ここで1つ気がつきました。

あれ?これ結局A君のこと、全部は見れてなくない?

ということです。 

 

 

例えばこの映像がNetflixみたいなサイトで、

''実録!A君の人生85年''

なんてタイトルで放映されたとします。

 

見てみりゃA君がどんなヤツかは丸わかりです。

どんなAV見てるかも丸わかりです。

でもよーーーく考えると映ってないものがありますね。

 

それは

・A君が感じた感覚そのもの

 

です🐯

 

 

A君が恋をした時の胸の高鳴り、A君が大声で笑った時のこみ上げる愉快さ、A君がラーメンを食べた時に感じた塩気、ベッドの角に小指をぶつけた時の激痛

そしてA君が最後に死にゆく時、だんだんと視界が白ばみ、ついには音だけとなり、そして次第に意識が途絶えゆく感覚・・

 

 

撮影映像には何一つ映ってないじゃあありませんか!

それは僕らが体感した感覚そのもの。

所謂''クオリア'' というものです。

 

 

僕もあなたも、リンゴの色を見たら赤いと感じますね。

でも僕が見ているリンゴの赤と、あなたの見ているリンゴの赤は異なっているかもしれません。でも脳の中を見せることはできないので、感覚を比較することができません。

 

 

 

なんかもう何の話だかわからなくなってきたけれど、A君の一生を写すよりも、A君が撮った映像を見たほうがA君のことわかるんじゃね?という話

 

A君のことをちゃんと理解するためには、A君の一生を覗いてみたって、一番大事なものは何にもわからない!

ということだけはわかりました。

 

ではA君のことを本当に理解するには?

A君が感じた感覚を僕らも味わうためには?

結局、彼自身が感じたものを何かしらの形で表現してもらうしかないんですね。

 

 

つまり、A君を理解するなら、

観るのに85年かかる映像を85年かけて観るより、

85歳になった彼が開催した''ワシの85年写真展''を見た方が理解をできるわけですね〜。

 

 

 

 

 

うーむ、やっぱ写真ってオモシロ!🐯

(毎度毎度、締めが雑でスミマセン。書いてたらもう深夜2時でした。)