写真手帖

写真作家の2人が写真を撮りながら考えたこと。

レンズについた水滴こそが、そこにぼくがいた証明なのかもしれない。

KikutaBayashiです。

 

最近読んだ本の中で印書に残った内容があったので、備忘録として記事にします。

タイトルの様な一節が大山顕さんの『新写真論』の中に出てきてハッとしました。

 

著者によると、下記のようなことのようです。

(僕の勝手な解釈を含んでます。)

 

現代までカメラ・レンズはフレアや歪みをひたすらに排除してきました。

つまりは、できるかぎり撮影者の存在を削除してきたのです。

できる限り''クリアな視界=目の前の世界そのもの''を目指してきたわけですね。

そしてついには写真から撮影者は消え、写真には被写体だけが残りました。


しかし、ここ最近はフレアやゴーストなどをわざと映り込ませることがトレンドになっています。
それは、そこに撮影者(=ぼく)がいたという存在の証明であります。

 

 

この本を読んでなるほどーくらいに思ってたわけですが、

不思議なもので最近また別の場所で似たようなことを教わる機会がありました。

 

というのも珍しく落語を聞く機会がありました🐯

それが妙に文学的な話で、ざっくり内容を書くと下記みたいな話です。

 

''過去の記憶なんて今となっては本当にあったことなのか確実に確かめる術はなく、それは幻想と何ら変わらない。

けれども記憶の中のあの場所へ行き、かつてと変わらない音や匂いを体感することだけは、

あの日僕が実際にそこにいたことを実感させた。''

 

 

うーん..なんだか深い。

 

  

 

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