写真手帖

写真作家の2人が写真を撮りながら考えたこと。

僕らの退屈な''日常''は急に壊れてしまう。だから日々シャッターを切ろう。

KikutaBayashiです。

2020年9月現在、未だに新型コロナウィルスで世界全体が騒然としています。

 

そんな状況の中、不意に3.11の時に感じたあの空気を思い出しました。

自分たちがあまりに大きな出来事の中にいせいでどこか実感のわかない、

ふわふわとした非現実的な感覚です。

 

家でじっとしている日が増えた今日、

写真と日常について考えたことを書き記そうと思いました。

 

 

 

 

''日常''は一見、壊れようもない巨大な退屈である。

 

日常と聞くとどんなイメージが湧きますか?

僕は平和、安心、退屈...そんなイメージを抱きます。

日常とはなにか?僕の持っている三省堂新明解国語辞典で引くと、

''普通の事として、繰り返し毎日行われること''

と説明されています。

 

なるほど確かに・・。

上記の説明について、1つ心当たりのあるエピソードがあります。

 

それは僕が高校1年生の6月頃の話です。

高校受験も終わり大して打ち込むものもなくなってしまい、

緊張感のない日々にもやもやとしていました。

 

おまけに当時流行っていた『涼宮ハルヒの憂鬱』というアニメを見た影響もあり、

先生との面談で

「学校生活って思ったより何も起きなくて退屈っすね。」

なんて恥ずかしいことを言ってしまったんですよね🐯💥

 

「生きてるうちの殆どの時間は退屈なんだよ。部活や勉強に打ち込みなよ。」

などとごく真っ当かつちょっぴり深いアドバイスを貰いました。

(ちなみに部活強制の学校で、僕の部活に対するモチベーションは塵のごとしでした。)

 

思えばあの頃はまだ3.11の震災も起きておらず、

当時僕が当事者となるような大事件と呼べるものはほとんど起きていない、

壮大な''日常''の最中だったのかもしれません。

 

そしてそれは大変幸福なことだったのだと思います。

 

3.11の大震災で日常が瞬時に崩壊することを知った

 

僕は福島県出身であります。

3.11のあの日も、まだ福島県の故郷に住んでいました。

当時の僕は高校3年の受験生でした。

 

あれはたしかお昼過ぎ頃でしょうか。

受験勉強の合間にちょいとサボってゲームをやっていました。

さてちょっと菓子でもつまむかと思ったその瞬間、

日常は突然に崩壊しました。

 

視界がぐにゃぐにゃと歪むような揺れが襲い、

家中のタンスが倒れガラスが割れる音が鳴り響きました。

ごうごうとした地鳴り、家の悲鳴、そして自身の心臓の音とが混ざり合い、

今思い返してもまるで地獄のような時間でした。

 

揺れが一時的に弱まったところで無我夢中で外に飛び出しました。

広い道路に出て揺れ続ける我が家を見返し、ふと自身の手を見ると、

べっちゃりと汗の滲むその手にはPS3のコントローラーが握られていたのでした🐯🎮

 

 

外で余震に備えていると隣の家の人も外に出てきて、

ケータイのワンセグでリアルタイムのニュースを見せてくれたのです。

 

そこには、僕が住んでいる同じ福島県の海岸沿いの街を、

黒々とした津波が飲み込んでゆく映像が流れていました。

床に溢したコーヒーが薄っぺらく広がってゆくように迅速でした。

 

僕はそれを見て、何かのシュミレーション映像なのか?

などとさえ考えていました。

そのくらい現実味の感じられない壮大な状況でした。

 

でもワンセグケータイの画面右上には、

僕が聞き覚えのあるごく具体的な地名が書かれていました。

そこは、我が家の斜め向かいの家族が1年前に引越して行った先の街の名前なのでした。

 

その時に、

''永遠だと思っていた退屈な日常・生活は、こんなにも簡単に壊れるんだ''

ということを知りました。

 

そして

''日常は永遠ではない"

ということも学んだのです。

 

 

3.11の時の僕の無力さの一方、現地で写真や動画を撮った人もいた

 

当たり前のことですが、当時のあの惨状を記録した写真は、実に貴重なものです。

今となっては過去に戻り写真や映像を撮ることもできないし、誰かに撮られた資料しか見る事ができないからです。

 

当時のそれらを個人的な作品としてコンペなどに応募する題材にすることは、

被災地で生まれ育った自分にとって、踏み台にされているような若干腹立たしく感じていましたが、

結局は何もできなかった自分よりはずっとマシだし、大切なことだと思うようになりました。

 

あの当時の僕が持っていたのはガラケーでした。

ガラケーのカメラは画質も悪く、そして趣味・ライフワークとしての写真に目覚めてもいませんでした。

 

また、当時の僕は普段写真を撮る習慣はなく、それに加え僕の家族も写真を撮らないタイプのため、

あの震災の前にどんな生活をしていたのか、ぼくの周囲はどんな世界だったのか、今となっては見ることができなくなってしまいました。

 

なんなら中学・高校の頃の自分の写真なんて卒業アルバム以外に存在していません。

そのくらい自分自身及び自分の''日常''に関心がなかったのです。

 

 

僕らの愛すべき日常をどんどん写真に納めよ!

僕らの日常は''普通''で''退屈''であり、カメラを向ける気になれないかもしれません。

 

でも100年後にその写真を見たり、なんらかの理由でその日常が失われた後にその写真を見れば、

その日常も退屈も、貴重な一瞬の歴史だったいうことがはっきりとわかるかもしれません。

 

そういったことから、僕はなんでもないものにもどんどんカメラを向けて、

どうでもいいと思える日常こそ写真に写していくべきだと考えています。

 

そして今のこの新型コロナウィルスの情勢がどうなっていくかわかりませんが、だからこそ今写真を撮ってみませんか?ということです。

今のこの状況ですら"日常"と呼べるくらいに世界は崩壊してしまうかもしれないし、幸いに今の状況が"歴史的事件"として語れるようになったとしても、貴重な情報資源になります。

 

というわけで皆さん、綺麗な景色などだけでなく、

自分の日常もどんどん写真に残しましょう!

というお話でした。

 

 

 

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ではでは!

またね〜🐯